杉並区教基本条例学習会の報告

  • 2008.03.17 Monday
  • 18:13
3月15日の教育基本条例の学習会の報告をUPします。

2008/03/15 みんなの会 杉並区教基本条例学習会 
                    文責:岡田          
司会(山本) 区長独断専行のように教育“改革”が進められている。3/11の区広報にあるように、『「杉並区教育ビジョン推進計画」の改定』についてパブリックコメントの募集(3月25日まで)をしている。今日のお話を参考に是非、皆さん応募していただきたい。

鶴田敦子さんのお話
「家族・家庭、道徳、伝統、人づくりが語られるとき」

 杉並区の教育条例案・ビジョンには杉並の顔がみえない。区条例なのに区の住民の顔がない。教育条例案の終わりに「教育とは人づくりだから人づくり条例としてもいい」などとあるが杉並区の地域の人でなく「区」を除いて何か別の力で教育“改革”が考えられている感じがする。都の教員養成塾にもびっくりだが、これよりすごいのが杉並の師範館。論語をかかげ“国家存亡の危機”の人づくり論にびっくり。杉並の顔がどこにもない。ここの卒業生を区の教員にするのにもびっくり。条例案(宣言でなく条例とするのは区民への強制力があるから)に曰く「今は自律心が失われているから、智・徳・体の涵養が求められる(杉並でなく国家一般のこと?)」、「自己中な人が多い(皆そうか? マスコミはいつも誰かを叩きたい、悪い人もいるかもしれないが私はまず政治家を叩きたいのに)」。教育に普遍性などないのに師範館では「普遍性」を語り「精神文化」を語るのがこわい。これでは区の条例でなく復古的国家の考えの押し付け、杉並区の顔が全く見えない。

・人づくりの原点は家庭か?

区の改革案には「道徳の区版副読本をつくる」「地域教育委員会をつくる」とあるが、それが区の顔になるのか?「人づくり」の原点は家庭か?「人づくり」が今のはやりことば。京都には「人づくり21世紀委員会」まである。
行政による「人づくりブーム」とはこわいこと。

誰がどんな人づくりを目指しているか。人づくりの主体は誰?
人づくりの主体は自分自身、私自身でしかないはず。人づくりは家庭の責任でもない。他人の言いなりではない。憲法の「思想・良心の自由」とは私を大事にすること、これこそが人権の根本である。このところ「人づくり」にまで踏み込む御用学者が増えているが、他人から人づくりされてはいけない。人の心のもちよう、智・徳・体をのばすには、一定程度の生活レベルが必要。寒さ・飢えのない安定した生活をクリアー、「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されるちゃんと客観的な政策なしに精神だけに責任をもたせるのは、高橋哲哉さんが言う「心と体の総動員政策」である。体育や体の大きさ、丈夫さを強調する時代は、戦時中であった。

 2005年からの食育基本法、そして食育ブームも気をつけたい。学校に栄養教諭を置く(都はまだ)、食育教育に企業が参入。全国で370の学校にカルビーのカッパエビセンが入っている。「食べすぎないように袋を小さくしました!」。
しかし食育基本法の目的は、農業自給率の破壊も食の破壊も全て個人の責任、政策のせいではない、とすることにある。中国の食材事件で犯人探しが大きく問題になっているが、なぜ中国食品に日本がこんなに依存しているのか、「安い」食材にたよるのは国民の収入が少ないから、食費に格差があるから、というようなことをマスコミは議論しなければいけないのに。「日刊現代」で堤未果さんは「貧困大国アメリカでは格差底辺層ほどジャンクフードによる肥満問題が大きい」と正しく指摘している。格差の負け組の肥満や飢餓は自己責任だから健康に心がけよと食育基本法をつくるが、経済戦略会議は「ただ長生きされては困る」、医療保険を使用しない年寄でなければいけない、としている。国家は心と体の総動員を求めている。

・家庭の教育力

「家庭で教育を」ということが言われ始めたのは大正時代。それまで農業中心社会では家庭という概念は少なく、男女ともに農の合間に地域で子育てしていた。近代、都市中間層が増えある程度収入のある都市労働者ができて家庭が自覚されるようになり専業主婦が多くなってから家庭教育が言われようになった(羽仁もと子、鳩山薫子など)。

 戦後の高度成長期時代以降は階層の移動が始まって地域共同体が消滅。70年代頃には学校にまかせられない階層が出てきた。教育のためには引越しもする最良の家庭教師をつける教育のために全力をつくす一部富裕階層のやり方が70年代後半にはもっと広く一般に広まって、教育は親・家庭の責任という論調が作られていった。(子の問題は親の責任、親の顔が見たい・・という流れ)

 杉並区条例案では「昔はよかった。今、国家存亡の危機」なんて言うが、これは行政のペテン。「特定のしつけ」を「良いしつけ」として一般化はできない。昔の大家族は本当によかったのか。昔の農家は長男以外は居場所もない、男女差、階層差、世代差、個人差、恋愛もダメ、習慣にしばられた抑圧、貧しい農家では基本的生活しつけをする余裕もなかった。そもそも、兄弟が大勢いるのだから「大家族」はその兄弟の1人に当てはまることにすぎず、残る兄弟は「核家族」。全て昔は「大家族」だったはずがない。こういうところにもごまかしがある。

「正しいしつけ」のプレッシャーが親・家庭と子を縛り、悲惨な事件の引き金になっている。親は正しくあろうと葛藤の中で苦しんでいるが、急速に進んでいる格差化の中で「正しい家庭」でいることが不可能な階層は追い詰められている。車中での化粧や地べたに座り込むなど、目に見える子どもの現象の全てを家庭教育のせいにするが、まわりの人々を人間ととらえられない、自分が直接コミュニケートしていない人は無視するという大人社会の反映ではないか。

・国家による家庭教育(資料プリント末尾の表参照)

 戦後すぐの進歩と啓発の学校教育の時代は60年代の高度経済成長期で変質し始めた。政府による1963年「期待される人間像」の提示で、家庭に責任を押し付ける流れが固まった。この年から家庭科を女子のみの必修科目とした。68年には国の家庭生活審議会が「あすの家庭生活のために」で家庭教育のルールを国民に押し付け、以降、政府がどんどん家庭のあり方に介入、国家の都合に合う家庭・モラル・国民の精神性を支配するようになる。そして98年には新自由主義のスピードアップでそれまでの家庭科教育攻撃が激化していく。
 新自由主義経済推進のなかで、人権に対して真っ向から行政が干渉してきたこの10年、杉並区は国策にのって条例で「人づくり」に介入しようとしている。弱肉強食の競争社会推進の中で大量の貧困者の時代に、生活崩壊を精神力と道徳で耐えさせる家庭主義・心がけ次第の精神主義の教育。政策で最低限度の文化生活を保障する条件整備をするのでなく、すべて個人の心のもち方に責任を帰する、これが「心の総動員体制」(高橋哲哉)である。

・中央教育審議会の教育課程の審議

 2008年の「新学習指導要領案」では教育を、知識基盤型社会教育と道徳主義教育との織物と表している。つまり、少数勝ち組エリート養成のための高度な技術者養成知識教育と、残り大半の負け組みは丈夫な体力と自己抑制力を養い不平不満を自己責任として押さえ込む道徳教育との調和を織物と言っている。つまり、勝ち組には主要教科の時間を増して学力をつけさせることに重点を、負け組みには「規範」による道徳教育と、伝統文化と称して武道・生活文化を体験主義教育として集団生活・職場体験・奉仕体験の重点教育をして丈夫で安価で文句を言わない労働力・兵員の育成を計ることのようである。
和田中学校の夜間補習塾はこの流れの一つ。

・家庭科教育の目標
 2008年新指導要領では、家族の機能を「安らぎと子育て」に特化している。しかし、「安らぎ」というがカスミ食って生きられるか生活のゆとりなしに安らげるのか。「子そだて」は生活の基盤がしっかり整わなければできない。小学校の家庭科教育目標には「心情をそだてる」とあるが、教育が「内心の自由」に入り込むことになってしまう。中学校の家庭科の目標には「着物の着方をあつかうこともできる」なんていのも書いてある。いったい中教審は何を考えているのか。“着物”は伝統文化か?伝統文化は変わるもの。時代とともに変わってきたもの。雛人形の形もどんどん変わり今の形になったのはせいぜい江戸時代後期か明治。復古的ナショナリズムは、日の丸・君が代とは別の形での愛国心の強制につながる。

・格差社会の行方

 新自由主義は、少数の上級富裕階層と大量の底辺貧困層とをつくりだす。
政府は格差社会を維持していくために、底辺層には各自の不平不満を抑えさせるための自己反省装置を持たせる必要がある。新自由主義経済社会では大量の底辺層の人々が必要である(自衛隊や安い労働力として)。アメリカでは底辺層を兵隊に取り込もうと軍が負け組み高校生に友人のようにはりついてしつこく入隊勧誘を行っている(堤未果著)。
どうすればよいか
「人づくり」教育による自律・忍耐力・自己反省を目指すのでなく、不正に立ち向かう行動力を育てなければならない。教育が目指すべきものは、事実を客観的に見る力と、正しい判断力、不正に立ち向かえ行動力であると思う。
                            (終わり)

【質疑・発言より】

Q(Nさん)
杉並区条例案、教育懇談会答申には“伝統精神”“精神”という語が沢山入っている。ほとんど“精神”“ビジョン”でつらぬかれていてるが。

A(鶴田)
法案をきちんと読んでいないので・・。ビジョンは教育再生会議ができる以前からつくられている。「道徳の副読本」とか「地域教育委員会」(隣組みたい)とかをつくるというのは本当に怖い感じですね。北区ではタスキがけの「声かけ隊」というのが始まっている。地域あげて子どもに「声かけ」?
良心的な人が「子どもをなんとかしなければ」と煽られて一所懸命になってしまう流れがつくられている。子どもに逃げ場がない。伝統文化は形だが、伝統精神は道徳そのもの。

S区議 
文教委員会では条例の話は今とまっている。まだ何も決まっていない、というが・・。今回募集のパブリックコメントもどこまで反映されるか不明。
地域支援本部はいずれ地域運営学校にしたい、というのが区長の考え。学校も選択性で、地域にも学校にも差ができ競争が激化することになると親にはプレッシャー。力・ゆとりがあるかで親の間にも差が目立ってしまう。地域運営学校では学校の運営が寄附で賄われるのが望ましいとあるが!

T 
公教育に市場原理を持ち込ませる考え。民間委託とか、企業の金で公教育を行う、その実働例が和田中。

M区議 (中2の保護者でもある)。
「和田中だけが特別」ということが余りにも多い。和田中生徒の1/3が本来の学区の子、1/3が隣接学区の子、そして1/3はそれ以外からの子。入学できないはずの遠い地域の子が多すぎる。バス通学も他校はだめだったのに、和田中だけOKになった。私立に負けない公立校を先頭に立って目指す、と藤原校長はいいつつ、実は他の公立校を攻撃、貶めている。

 区は学校支援本部(現在17校)を22年までには全校につくらせる予定。支援本部への公費(国と区)の助成は、多い所では1000万円近い。和田中で450万ほどの公費が入っている。助成の受け皿はボランティアであり監査のしくみもなく、会計が不明朗。ドテラ(土曜午後の補習授業)の参加者は年間5000円、「英語Aコース」では毎月6000円を払うがこれらの使途も確認できない。

K区議 
教育条例は区は有識者に聞いてまとめる、と言っているが、教育委員会も今のところ持余しているように見えるしかし今さら止められない。「有識者」に誰をもってくるかが大問題。

地区教育委員会は自治分権で、教育に特化指定を得た自治体として、教育委員会を離れて区長部局でやれることになっている。今の井出教育長は山田とはちょっと違うという印象を持っている。

区では国民保護計画の流れとして既に中学生レスキュー隊をやっている。安心安全街づくり・防犯の一環として桃井広場に自衛隊を呼んで中学生が自衛隊ヘリと一緒に防災訓練をしている。(格好イイと中学生には映るだろう)。これを「部活動」として力を入れよう、いずれ全中学にレスキュー隊を計画したい、という動きもある。

Q(N) 
「夜スペ」を和田中の先生方はどうみているのか。なぜ学校が塾をやるのか。山田区長みなって学校選択制になり学校の統廃合とかも起こりとても大変。現場の先生はどう見ているのか。

A(H先生)
和田中勤務ではないが。和田中藤原校長は山田から全権をまかされており「よのなか科」など自由にやっている。和田中内部の教員は批判的だと他校に出されてしまう。今、学校の人事権は校長にある。だから公然と批判など口にできない。一般には中学1年生は不登校でも学内で支援努力する方向にある。しかし和田中では中1の1学期でも、不登校児をさっさと「さざんか」(不登校の適応支援校)に出してしまう。藤原校長の強引さが目立つ。
今、全体として、親も子どものしつけの全責任を負わされる重さでウツ気味の人が多いようだ。親も子も追い詰められて少から塾通いの子が多くなっている。「小学校にも夜間塾を!」という校長もいる。公教育なのに成果主義。公教育の破壊が進んでいる。

A(I) 
小学生の保護者この春から親のボランテアを校長が束ねようとしている。変だと言うと、校長・副校長・育成委員が「芝生化(スポーツ利用に制限、野球はできない)になっていいのか?」とか「本当は部室使用はダメ」とか「支援本部に入れば融通する」とかいろいろ言ってくる。子ども達のためではなく「校長支援本部」づくりを、区の本音をむき出しでやろうとする校長のよう。

Q(T) 
和田中は校長が杉並区のPTA協から脱退させている。PTAをつぶして和田中のPTA会長を地域支援本部の中にとりこもうとしている。
 区教委は都教委と一体になって動いているけれど、都教委に処分されたT先生、少しお話下さい。

A(T先生) 
2年前まで杉並高校定時制にいたが、君が代不起立で都教委に嘱託不採用処分をされ止めさせられた。東京都ではすでに50人が嘱託採用拒否でクビになっている。この2月7日に不採用撤回裁判に勝訴(中西地裁裁判長)「君が代起立の職務命令違反をあまりにも過大評価する一方で、原告らの勤務成績等の事情を一切考慮せず処分したのは客観的合理性に欠き、都教委はその裁量を逸脱・濫用している。本件処分は都教委による不法行為であるから、被告都は原告らに損害賠償をする責任を負う」と明快に判決した。しかし都教委は控訴。結局、高裁・最高裁まで勝たなければ正当な結果は出ない。

都教委は2003年10月に出した「日の丸君が代」徹底実施の通達以来、入学・卒業式や周年記念行事の各学校に大勢の監視員を送り込み、「憲法の内心の自由規定や、起立・不起立、歌う歌わない自由があることを説明した教員」と「不起立の教員」「君が代を歌わない教員」をその場で現認(現行犯として記録すること)、その後、校長と事情聴取をして見せしめ処分を連発するようになっている。今回先生方に勝訴判決を出した裁判長は少数派で、残念ながら多くは、都教委による強引処分をよしと認め、教員敗訴の不当判決が圧倒的に多い。

教科書裁判で家永先生は「裁判の勝敗はいい。裁判にすることに意義がある」と言われたが、しかし、われわれの裁判は、負ければ日本中が「一糸乱れず行政の命令に服従する学校」になってしまう。

A(鶴田先生) 杉並の状況は本当に大変ですね。えーっ!です。これからどういう方針で闘うか。皆さんのお話、重く受け止めさせていただきました。


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